黒酢の歴史と重久家
黒酢の誕生
以前の歴史観
・今から200年以上前、中国から来た一人の商人が福山の「竹之下松兵衛」に米で酢ができることを教えたのが始まりと伝えられていたが実際のところは
⇒天保の改革から薩摩藩と福山酢には密接な関係があると判明
・天保4年1833年、薩摩藩第10代藩主島津斉興(しまづなりおき)の時に500両の借金(5000億円)があり財政改革が待ったなしの状況
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家老調所広郷(ずしょひろさと)に様々な改革を実行させる
1、 清との密貿易
2、 徳島などでとれた黒砂糖の専売制
3、 物産の品質改良―ウコン、菜種、櫨蝋(はぜろう)、米
4、 上記の一部として黒酢生産
福山豪商厚地次郎右衛門(あつぢじろううえもん)
・福山の役職の頂点郷士年寄(士成商人)になった人物で薩摩藩にも献金で大いに貢献。黒砂糖、麺の取引及び都城島津家・宮之城島津家・琉球王国を取引先とする金融業を行う。琉球王国は中国と貿易を行っておりその流れで薩摩藩の全面的な関与、産業復興のもと黒酢造りが誕生したのが自然の流れ。また、中国料理には酢が欠かせないという点でも福山の黒酢が貢献していた可能性もあり。
なぜなら黒酢の元になる米の農政改革が福山各地に残っているのが証拠
薩摩藩豪商浜崎太平次(はまざきたへいじ)
・蝦夷、函館にまで視点を持つほどの実業家。篤姫の婚礼もこの人物の資金援助がなければ考えられなかったともいわれている。その商売は幕府に内密で寒天を製造。そのときに必要となったのが良質な福山の黒酢。東南アジアにも進出していたため広く中国、東南アジアに販売網を持っており薩摩藩への貢献ははかりしれないものとなっていた